海風ゆらす

「兄きは、”げっ"と思ったとき、そういう顔をするのでわかりやすいです」

 傍らを歩く弟分がそう呟くのを聞いた義丸は、”げっ”という顔をする。
 商船の護衛という仕事を終えて寄港し、船を降り水軍館へと戻る道中のことだ。
 突然そんなことを言い出した相手に、"げっ"という顔のまま「そう?」と尋ねる。そんな兄き分の顔を一瞬横目で見た舳丸は、波が引くようにあっさりと視線を正面に戻した。
 口数の少ない舳丸の反応の薄さには慣れている。義丸は崩した表情を直し、口元を手のひらで覆いながら、見られてたのかというように指の隙間から「あ〜」と声をこぼす。
 今回の客は気に入らないところがあった。ちょいと難しい要求もしてきた。金払いはよかったし、報酬をもらう以上仕事はしたが、胸の内が漏れたか、甲板に出たときにちょっとそんな顔をしたかもしれない。そこを見られていたか。見ていないようで他人をよく見ている、そういえばそういうやつだった。こいつは。
 そんなことを考えながら返事をする。自覚がある以上、弁解するつもりは無い。
「顔に出ちまうんだよな〜。根が素直だから」
「本当に根が素直な人間はそんなこと言いません」
 義丸の発言の終わりを、余韻なぞ残させるかという速さで舳丸が切り落とす。自分の言葉を真正面から瞬時に否定された義丸は、弟分の横顔を見ながら、口をすぼめた。
「そっかなあ〜」
 なんだか雑に扱われたが、怒ってはいない。ただ、やわらかい声で冗談まじりに、軽〜く不満を訴えるように。見せかけだけの反論をする。長い付き合いだ、こいつなら俺のこんな言葉なんぞ、真面目に受け取ることはないだろう。
 案の定、義丸の発言の語尾が伸び終えるまで待ってから、舳丸は「いい土産をもらいましたね」と無関係の話題を口にする。目も、すでに手元の荷物を見ている。手前から話題にしておきながら、もう興味はないといったふうだ。まったく、さっぱりとしている。
「そうだな。気前のいい客だったな。げーっなんて顔して悪かったなあ」
 変えられた話題にのっかりつつ、先の件を引っ張ってみても、返ってくる言葉はない。義丸は、まぶしく光を反射している水面を眺めながら、うーん、いい天気だな、なんて思った。



 そんなやりとりがあったのは半月ほど前のこと。
 いま、舳丸は、水軍館近くの村を抜け、少し離れた作業小屋を目指している。朝の仕事を終えたところだが、いつもより時間がかかったため時刻は昼に近かった。右手に横たわる海の上、高い位置から太陽が照りつけている。さっきまで皮膚を濡らしていた海水はすでに無い。ジリジリと肌を焼く熱に水分は奪われ、白い塩だけがうっすらと残っている。髪の毛も乱暴に乾燥され、バリバリとしている。
 そんな暑さのなか、彼は人探しをしていた。ただし、人探しと言うには本気度に欠けるような、足が地面からふわふわ浮いているような人探しだ。

 仕事場である海から上がり、朝の仕事は終いだと上役から言われた時に、ふと、あの人は何をしているだろうと思った。水軍館内にいれば何かの拍子に顔を合わせることはあったし、食事の席などで定期的に顔を見かける。それで足りないと思ったことはないのに、今日はなぜだか急にそんな気持ちになった。舳丸は突然湧いて出た感情を持て余しながらも、それに寄り添い誘われるままに歩き出した。

 道中出会う人に探し人について尋ねる。軽く。ふわりと。もし知っていればくらいの気持ちで。
 ちょっと前に館から出て行ったよ。そこでおなごたちが魚を捌くのを眺めていたな。砂浜で子どもらに呼び止められてましたよ。聞くたびに知らない相手の姿が見え、点と点がつながっていく。それがちっとも楽しくなかったかと言えば嘘になる。ついついその先の声を拾っていくと、自ずと進む方向が絞られた。それが、いま目指している作業小屋だ。
 昔からそのあたりは見晴らしがよく、いい風が通り、適度に木陰もあった。逆に仕事のとき以外には人通りが少なかった。つまり、ひっそりとした時間を過ごすには適した場所というわけだ。用事があって近くを通ると誰かしらの姿を見つけることがある。そういう場所だった。彼の人がこちらに歩いてきたのなら、そこにいる可能性は高い。

 小屋に辿り着いた舳丸は、入り口を通り過ぎ、来た方と反対側の小屋の陰を覗き込む。そこに、松の木の根元で風に吹かれて揺れる茶色のくせ毛を見つけた。当たりだ。
「兄き」
 小さくともよく通る声で呼びかけると、そのくせ毛がもぞりと動く。頭の下で腕を組んで寝転がっていた義丸が、顔だけ動かして舳丸へ視線を向ける。それから”げっ”という顔になった。貴重な休憩時間をうるさい弟分に見つかったなあとでもいうような顔。何も知らない若い水夫たちなら素直に受け取って「すみません」なんて謝るかもしれない。だけど、それを私にやりますか。
 舳丸は胸の内でそう呟くと、
「思ってもいないのにそういう顔するのはやめたらどうですか」
と、呆れているような声で言った。いい加減にしてください。その顔、俺には通用しませんよ。わかっているんですからね。

ここのところ、舳丸の目につくところで義丸はなにかとその顔をした。もともとよく見かける表情だった。この兄きの外面だけしか知らないと掴みにくいかもしれないが、意外とわかりやすい性格をしている。隠すのはうまいが、隠すつもりのない感情は見ていればわかるくらいには表に出した。この、やだなあ、とも、失敗した、とも取れる顔だって、表に出てくる感情のひとつだ。
 だが舳丸は気付いていた。最近の兄きはわざとこういう顔をしている。

ーー『兄きは、”げっ"と思ったとき、そういう顔をするのでわかりやすいです』

 以前、仕事の帰りに自分が言ったことを覚えていて、からかっているんだろう。この人はすぐそういうことをする。面白そうなことを思いつくとすぐ実行に移すような、いたずら好きの子どものような一面がある。あの時は特に考えもせず思ったことを口にしてしまったが、こんな面倒くさいことになるなら言わなければよかった。
 当の義丸は、舳丸の言葉に目を丸くしたあと、今度は逆にニィと笑うように細めて、そうかあ、と言った。ちょうどいい遊び道具を見つけたような、それでいて愛しいものを見つめるような顔。その顔で舳丸に視線をあわせたまま、幼い子どもに接するような声色で話しかける。
「それなら、見つかったけど満更でもない、って顔でもすればいい?」
 満更でもない、とは何に対してか。その疑問をぐるっと脳内一周させたが、答えに辿り着く前に「普通でいいですよ」と返す。それを聞いた義丸は、小さく笑みを浮かべたまま、喉の奥で小さく「んー」と承諾とも不承諾とも取れるような音を転がしている。
 舳丸は、その顔から海側へと視線を逸らし、寝転がった義丸の足先を見つめながら「隣、座ってもいいですか」と聞いた。
「どうぞ」
 快諾の返事と同時に、寝転がったまま、ずり、と少しばかり向こう側へ動いてくれた兄きの隣に腰を下ろす。狭い場所でもないのだから場所を作る必要は無いのに、と思ったが、ごくあたりまえに行われる義丸のそういった気遣いは、昔から舳丸のこころをやわらかくした。
 折角場所を作ってもらったのにすみません、と心の中で謝罪して、少しあいだをあけて座る。地面に尻をつけ、息をひとつ吐いたあと、あれ、これからどうすればいいのだろう、と考える。先刻軽い気持ちで始めた行為は、目的を果たしてしまった。何かのためにこの人を探すという、明確な目的があったわけではない。腰は落ち着いたが、こころはまだふわふわと自分のまわりを漂っている。なにを、どうすればいいんだろう。兄きの隣で。
 次の一手が見つからないまま義丸の方を見ると、相変わらず舳丸の顔を見つめたまま口の端をあげて笑っている。
 またそうやってからかうような顔を、と、舳丸は眉間にシワを寄せた。ぐるぐるとしている自分の胸の内を見透かされて、笑われている気がした。その表情の変化を見た義丸が、ふっと笑って説明する。
「そんなに訝しむなよ。嬉しい時は笑うだろう?」
「……嬉しい、ですか?」
今が?何が?と、その発言から真意を拾おうとする。いざというとき、この兄きの本当のところは見え辛い、ように思う。言っていることをどこまで素直に信じていいのだろう。どこまで踏み込んでいいのだろう。
「そうさ。かわいい弟分が隣にいるんだから」
ほら、すぐこういうことを言う。
「……」
 思っていることが表面に出づらい舳丸の、わずかな戸惑いを感じたのか、義丸が「本当よ?」と軽やかに声をあげて笑う。
「俺って、信用ないのな〜」
「そういうわけではありませんが……」
 それは違う、という部分を明確に否定し、舳丸はまた口を閉じる。あとに続く言葉が出てこない。
 この兄きを信用していないわけではない。水軍には同じ二十五歳の別の兄きがいるが、そちらと比べて義丸の考えや態度に理解し難い部分があるのは事実だ。それでも、鉤役としての働きや仲間内に対する態度は十分信頼するに値するものだったし、実際舳丸は義丸のそういうところは好いていた。
 ただ、この兄きには、わからないところが多い。そのひとつがーー
「……兄きは……いつも笑っているので……」
「信じられない?」
 考えながら紡ぐ言葉にかぶせるように、笑みを浮かべた義丸が言う。
 これだ。義丸はよく笑う。その理由が舳丸には理解できないことも多い。なぜ笑うのかわからない、笑う必要がないのではないかと思う場面で笑っている。自分からすると安売りしすぎではと思うくらいに笑うので、それが本当の笑顔なのかわからなくなるときもあった。そしてその笑顔はたまに、人をからかうような口調や態度を伴った。
 そのためか、この人の怒った顔やつまらなそうな顔、昂った顔よりも、笑顔の下の感情を計り兼ねることが度々ある。どんな気持ちを笑顔で包んでいるのか、と勘ぐってしまう癖がついた。長い付き合いの弊害だ。おかげで、いまどう返すのが正解なのか見つからない。
 きゅっと眉間のシワをきつくした舳丸の顔を見て「すまんすまん」と義丸が謝る。
「からかわないでください」
「からかっちゃいないさ」
 そう言うと義丸は視線を頭上の枝に移し、ゆるりと目を閉じた。
 その顔を眺める舳丸の胸の中で、兄きの言葉を簡単に信じちゃいけないという自分と、その言葉と声音に嬉しくなってしまう自分が入り混じる。寄せる波と引く波とがぶつかり、はじけ、混じりあうように。水面に浮かぶ船がぐるぐると渦に翻弄されるように。ああ、時々、自分がひどく面倒だ。どちらかの気持ちだけなら楽だったのにーー。

 お互いになんの音も発しなくなったので、波と風の音だけがからだを通り過ぎる。時折、木の葉が揺れる音も混じる。ざあざあ、さあさあ、さやさやと、今にも爆ぜそうな心と頭を冷やすように流れる音が心地よい。

「なんでここにきたの」

 そんな世界の一部に、義丸の声が混じる。自然の一部のように、九音だけを空気中に残し、風に溶けるように消えた。その音が消えた場所を見つめながら、同じ場所に音を置くように舳丸も空へ声を投げる。
「……理由が、必要ですか」
「理由があったんだろ」
 答えがわかっているのに本人から言わせようとするような、この兄きのやりかたは苦手だ。ただし、それが、常であるならば、だ。いま、舳丸は、空気中にぽこんと放られたそれに対し、特にどんな感情も抱かなかった。義丸の声が極端な感情をはらんでいなかったからかもしれない。そうして、理由を考えた。そう、ここにきた理由は、ある。
 舳丸は、音が浮かんで消えた方向を見つめたままゆっくり口を開き、口を開いたのと同じくらいの速さで、正しい音を探しながら進むように言葉を紡いだ。
「……兄きが、いらっしゃらなかったので……」
 最後までは言わなかった。探しました、なんて言えない。それを明確に言葉にしてしまうことに少し戸惑った。そもそも、探しました、というのが正解かもわからない。兄きがいなかった、きっかけはそれだけだった。それだけを伝えられればと思った。それ以外になにもなかった。同時に、この兄きなら、自分がはっきりと言葉にできないものを拾い上げてくれるんじゃないかと、少し、ほんの少し期待して、それから、そんな自分のずるさを恥じた。
 変わらずゆるっとした笑みを浮かべていた義丸は、目を薄く開くと、その瞳に舳丸を映して、それだけ?と言った。

「それは俺、自惚れてもいいのかな」

 その言葉と、声と、視線に触れ、舳丸は頭の片隅に光が射したようになる。ぱあっと視界が明るくなり、目に映るものの輪郭がはっきりするようだ。ああ、拾われた、と思った。自分がかたちにするのを怖がって触れようとしなかった部分を、拾い上げられた。そうして目の前に出されたものを見ると、反論の余地もない。それはそうだ、元々自分の中にあったのだから。見ようとしない、認めようとしない、拾おうとしなかったのは自分自身だ。それを、必死に蓋をしてきたものを、目の前に持ってこられる。そうだ、それです。こんなふうにされたら、降参するしか無いじゃないか。俺は、あなたをーー。
 舳丸は、気付いてしまった自分の気持ちをもう否定できないと思ったが、否定する気持ちにもなれなかった。ただ、素直に、自惚れていいですよ、と言うのはなんだか悔しくて、また回りくどい言い方を選んでしまう。こればかりは自分の性分だ。でも、これでもきっと、あなたには伝わるんでしょう。悔しいけれど。
「……ご自由に」
 舳丸が海を見つめたままそう言うと、傍らからあははと笑い声があがった。その声にひかれるように、舳丸がちらりと隣を見ると、義丸は、ふ、と穏やかな顔になった。普段あまり見ることのない、凪いだ海のような表情は、宝物を小さな箱に入れて秘密の場所に隠すように、密かに、静かに、舳丸が好いている顔だった。
 その義丸の口が薄く開き、穏やかで、やさしくて、溶けそうなようにやわらかな音が、再び空中へ生み落とされる。

「俺が自惚れていいなら、お前も自惚れろよ」

 先程までより少し落ち着いた、低めの義丸の声が、突如ビュウビュウと吹き出した潮風の間を渡るようにして舳丸の耳に伝わる。少し風に奪われながら、それでも確実に。
 その音が鼓膜を揺らし頭の芯まで届いたとき、舳丸はパチンと弾けるようにその言葉の意味を理解した。そして笑う代わりに口元に力をこめた。きゅっと唇を結ぶ。そうでもしないと、笑ってしまいそうだ。自分も、自惚れても、いいのか、兄きが、俺の気持ちを聞いて、自惚れるのと同じように、俺も。なんてことだ、この人は本当のことしか言っていなかった。
 兄きの口から告げられた内容に、こころがぼんわりと暖かくなる。その暖かさを抱え、口を閉じたまま海を眺める。さっき言葉を交わしていた時はあんなに波が立っていたこころの表面が、穏やかになっていく。ただ傍にいることが心地よい。舳丸は、まだ名付けられない何かが、胸の中心からじんわりと、ゆっくり、少しずつだけれども確かに、体全体を満たしていくのを感じていた。

ある晴れた日の、お昼前のことである。


義丸と舳丸はどちらも他人との距離の取り方がうまくてよっぽどのことがなければ(良くも悪くも)波風立たせず過ごせそう、と思っていますが、
そんなふうにうまくやっている中でお互いにだけうすーく滲み出る何かがあればいいな〜と思って書きました。
ねらっているところがふんわりしすぎ。
あるときぶわーと光景が浮かんできて、これは絵より文だと直感で思ったので文章になりました。難しかったけど楽しかったです。